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東京都下で5人暮らしパパの雑記。

鎌倉時代(1185〜)、執権の北条氏と戦国大名の北条氏について調べ直す

子供の社会の歴史の授業が、鎌倉時代あたり。

今は鎌倉時代は「1185年〜」だそうです。1192年じゃないんですよ!

しかし、子供は「イイクニの・・何年か前!」といっていた。アホか。

 

源氏の将軍が3代で途絶えてから、北条氏が優勢になります。

執権政治です。

 

鎌倉幕府は1333年に滅亡します。

1333年5月15、16日に、幕府と新田義貞の勢力との間で「分倍河原の戦い」がおきました。

5月15日は幕府軍が優勢で、狭山まで退却。

分倍河原から狭山まで!えらい遠いじゃないですか。

秋津乗り換えで1時間半ぐらいかかります。

5月16日には新田義貞が優勢になり、幕府軍は鎌倉に撤退します。

 

分倍河原駅のロータリーにある新田義貞像です。

現在、府中市には「分梅町」がありますが、「分倍河原」という地名はありません。

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像はの顔は鎌倉のほうを向いているため、駅のほうからみると顔は向こうをむいています。

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その数日後、1333年5月22日、東勝寺合戦で、鎌倉幕府は滅亡します。

このとき、北条氏は、重臣の長崎氏らとともに、戦死あるいは自害しています。

最後の16代執権の北条守時は5月18日に戦死。

実権をにぎっていたのは14代執権の北条高時で、東勝寺で自害しました。

 

ということは、北条氏はここで滅亡。

戦国大名の北条氏は?

 

室町幕府御家人の伊勢氏が、親族だった今川氏の騒動に関係して駿河に移り、伊豆や相模に勢力を広げた。

1495年、小田原城を奪う。1516年、相模国を制服。

1523年、2代目が、伊勢氏を北条氏に改名する。

 

つまり、かつて約2百年ほど前にこの地のにいた有力な北条氏の名前をかたった、ということでした。

 

最大で240万石の有力な戦国大名になる。

 

1590年、小田原征伐戦国大名の北条氏は滅亡。

関係者の切腹、助命などを経て、江戸時代は河内狭山藩1万1千石の大名として存続。

狭山藩主になって12代目で明治維新を迎えた。

 

鎌倉時代の北条氏と、戦国大名の北条氏はなんらかのつながりがあると思いこんでいましたが、2百年ほど離れており、直接の関係はなかったのでした。

区別するため戦国大名の北条氏を「後北条氏」ともいうそうです。

 

江戸幕府の滅亡は1867年で、まだ154年前です。

いま有力な武装勢力が現れる、それが徳川氏を名乗るなどとは考えられません。

 

1333年から1523年までの190年間、武士の時代ということで、あまり劇的な変化がなかったんですね。